『おまけの人生』が始まった日 〜父が60歳で障害を負ったあの日のこと〜【第1話】

家族のこと

「60過ぎたらおまけの人生」

父は、そう言っては昼間からお酒を飲み、自由気ままに仕事をする人でした。

2002年、平成14年。 父は66歳で、その生涯を終えました。

けれど、父の人生が大きく変わったのは、 ちょうど60歳を迎えた年のことでした。
~これは、私が“60歳”という言葉の重みを知った話です~

自由に生きていた父

父は、撮影現場の装飾小道具を手がける会社を、親会社の勧めで立ち上げ、社長として経営していました。

どちらかといえば職人気質で、数字や細かいことには無頓着。 お酒の好きな仲間たちと、自由な空気の中で仕事をしていた人です。

高校野球の季節になると、テレビ中継を見ながらビールを飲むのが恒例でした。

「この試合が終わったら行くから」

そう言って、そのまま会社に顔を出さない日も、しばしばありました。

ある日の出来事

そんな父に転機が訪れたのは、60歳になったその年。

ある夜、酔って帰宅する途中で、駅のホームから転落し、救急搬送されたのです。

当時、私は父の会社で経理をしていました。 いつもの朝、子どもたちを保育園へ送り出し、仕事の準備をしていると、母から電話がかかってきました。

「お父さんが昨日も酔っぱらって、今、病院にいるから迎えに行ってくれる?」

家の近くの病院だったこともあり、私は 「またか…」 と思いながら病院へ向かいました。

いつもと違う父

けれど、そこで見た父の姿は、いつもとまったく違っていました。

ベッドに横たわる父は、腰から下の感覚がなく、まったく動かせない状態だったのです。

医師から告げられた診断は 「脊髄損傷」

その日のうちに、専門の病院へ転院が決まりました。

再び救急車に乗せられ、郊外にあるリハビリ専門病院へ。


「おまけの人生」の始まり

60歳。

父が冗談のように口にしていた 「おまけの人生」 という言葉は、 この日から、現実の重みを持って始まったのかもしれません。

幸運だった専門病院への転院

 転院先の病院は、交通事故などで重い障害を負った若い方も多く入院している、リハビリに特化した素晴らしい施設でした。

運良く最初の病院にその専門病院とつながりのある医師がいたため、すぐに転院できたのは本当にありがたいことでした。

けれど、障害の重さは変わりません。 牽引治療や長期のリハビリは身体にも心にも過酷なもので、父もかなり辛かったと思います。

今考えると父はどんな思いで過ごしていたのだろうかと胸が痛みます。

泣き言を言わない父

それでも、父は一度も泣き言を言いませんでした。

しっかりとした意志のあるまなざしで、ただ黙々と治療を受け、リハビリに励んでいました。

元々、装飾の仕事をしていた父は手先が器用で、やがて手に装具をつけながら車椅子を自走したり、絵を描けるまでに回復しました。

その姿には、娘である私も深く胸を打たれました。

KSDの傷害保険

やがて退院が決まり、自宅での生活がスタート。

まだ介護保険制度が施行される前で、自費のサービスも多く、準備は簡単ではありませんでした。
けれど、父は経営者として加入していたKSDの障害保険で保険金が下りたため、滞っていた会社の支払いや自宅の改修、介護サービスにも充てることができました。

「自分の身体で会社も家族も守ったんだね」と、今になって思うのです。
 自宅の和室はフローリングに改装され、玄関にはリフトも取り付けました。

当時はすべて自費でしたが、迷うことなく整えることができたのは、あの保険金があったから。

そして、母と私、私の家族による在宅介護が始まったのです。

「この出来事が、のちに私が“身体と暮らし”を考える原点になりました」

この出来事は、わが家の暮らしを大きく変えていきました。
次回は、退院後の在宅生活と、家族が直面した現実について綴ります。

                      🔸この投稿は1話〜3話の構成です🔸



            〜続く〜

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